Big Dipper

人生は長い航海のようなもの。穏やかに・幸せに過ごすためのtipsを綴る。

死を想う

 私は長年、死ぬということに真っ向から向き合わずに生きてきた。とても身近な人が亡くなるという経験がなかったため、人が死ぬということに対し、あまり実感がわいていなかったのだと思う。

 よく覚えているのは、小学生か中学生の頃の国語の教科書に“メメント モリ(死を想え)”という言葉が出てきたことだ。それまでは自分から積極的に死について考えることなんてなかったし、この毎日がなんとなくずっと続いていくものだと思っていた。しかし、実際はそんなことはない。人はみんないつか死ぬ。1日1回、死を想うことによって、今ある日常に感謝し大切に過ごすことができる。この教科書では、そういうことについて述べられていたように思う。ただ、死に直面していない者が死を想うのにも限界があるようで、その当時の私はまだふわふわとした感じで死を感じていた。

 このことが変わったのはネパールに旅行した時だった。首都カトマンズにある世界遺産の一つであるスワヤンブナート。ここへ私はタメル地区(旅行者向けの宿が集まるところ)にある宿から歩いて出掛けた。スワヤンブナートからの眺めはとても素晴らしいもので、カトマンズの街並みが一望できる。ということは、ここは高いところにある。スワヤンブナートへの坂道を登る途中で、そのあることは起こった。道端に倒れている犬。ぎろりと鋭い目線で私のことを見ていた。まだかろうじて生きているが、立ち上がる元気はもうない。お腹が化膿し、そこへたくさんの虫が集まっていた。この犬はもう生きてはいけない。ものすごく早いスピードで死へ向かっている。死に向かっているこの瞬間、この瞬間を見たのは初めてだった。私の死の経験は、この出来事によって鮮明になった。ふわふわしたものから現実味を帯びたものになった。

 スティーブ・ジョブスがハーバード大学で行った有名なスピーチも、このことにつながっている。「もし今日が最後の日であっても、今からやろうとすることをするだろうか」人生に迷ったとき、普段の生活に疑問を持ったとき、自分にこのように問いたい。

のだめカンタービレ(ドラマ)のすすめ

 私が今まで観たドラマはあまり多くない。それは、ドラマは面白くないものが多くて時間がもったいないから、という偏見からである。映画に比べて通りすがりのものが多く、視聴率だけが話題になる(逆に言うと、視聴率さえ取れればどんな内容でもいいのか?)というところが、私の肌に合わないと思っていたのだ。そして、私はもっと一つのことに対してじっくり考えられるようなテーマが好きなのだが、そういう難しいテーマは平日の夜の疲れた頭には面白く感じられないであろう……。

 さて、そういう私が観た数少ないドラマの中でも、これは好きなもののひとつ。何が好きかというと、まずストーリーが恋愛にどっぷりはまっていないこと。爽やかな気分で見続けていられる。そしてクラシックの音楽がこれでもかというほど詰め込まれていること。幼いころからクラシックに親しんできた私には嬉しい。さらに、各登場人物のキャラクターがそれぞれ強烈で、ギャグが多い(原作が漫画だから当たり前かもしれないが)にも関わらず、時に考えさせられるような場面がある。ストーリーがしっかりしていると、やはり仕上がりも面白いものに出来上がるのだなと思う。上野樹里さんと玉木宏さんがはまり役で、のだめワールドにどっぷりと浸かることができる。

 気分が乗らない時に気に入ったところを少しだけ観て、のだめからやる気をもらっている。言わば私にとってのやる気のスイッチの1つである。

場所を変えて幸せに

 前の記事に、「普段とは時間を変えることで、同じことでも少し幸せに感じることがある」と書いた。同じように、場所を変えることで幸せを感じることもあるので、それについて書こうと思う。

 私の場合を以下に列挙する。

 1. 庭/バルコニーでの食事:普段と同じメニューでも休暇に出てきたかのような気分になる。朝は爽やかでいっぱいの太陽のエネルギーを浴びて、夜は日が暮れる幻想的な空間を感じて。

 2. 屋外での読書:新鮮な空気を吸いながらの読書は、いつもの屋内での読書よりも開放的な気分に。

 3. カフェでの編み物:編み物・裁縫などちょっとしたことをお気に入りのカフェで。美味しい珈琲と音楽を楽しみながら、自分のプロジェクトをこつこつ進められる。

 4. カフェでのひと時:お気に入りのお店、席があったとしても、たまには違うところに行ってみる。普段とは違う時間を楽しめるはず。

 そのほかにも、自分のお気に入りの場所を見つけたり、部屋の模様替えをすることで今までと違った雰囲気を楽しんだり、現状に飽きてしまったら少し周りを見渡してみよう。少しの工夫で今よりもっとおもしろいことができるはず。

 

 

時間を変えて幸せに

 普段とは時間を変えることで、同じことでも少し幸せに感じることがある。同じことをするなら時間の許す限り少しでも幸せな方がよいではないか。

 例えば私の場合、以下のようなものがある。

 1) 朝型の出社/退社:トータルの勤務時間は同じでも、朝早い方が清々しい気持ちになる。通勤ラッシュを避けられるので効率もいい。夕方も早く帰ることで寝る前の時間を有効活用。勤務時間に融通が利く職場に限られるが……。

 2) 早朝の学習(今は英語):早朝だと頭に入りやすい気がする。フレッシュなエネルギーをそのまま学習に充てられる。

 3) 早朝の運動(軽いジョグ):2) に同じ。朝のエネルギーを運動に。朝の空気はピリリと厳しく、ジョグが終わる頃には爽やかな気分になる。また、この後の朝ごはんも美味しく食べられるというおまけ付き。

 4) 朝のケーキ/アイスクリーム:朝一から好きなものを食べる幸せ。ちなみに前日の夜寝る前も、朝のことを考えワクワクできる。

 5) 昼のビール:なぜか夜に飲むより幸せな気分に。

 6) 夜の映画:気分が盛り上がり、ついつい夜更かししてしまう……。

 

 24時間を最大限にご機嫌に過ごすには何ができるだろう?

少女パレアナ

 小学生の頃に初めて読んで、とても好きだった本。

 “何でも喜びを見つける”ゲームをすることで、辛い環境に置かれても前向きに生きる少女パレアナ。その姿に影響され、“何でも喜びを見つける”ゲームは彼女ただ一人にとどまらず、彼女の周囲に広がっていく。そして、はじめは気難しく毎日を不幸せに送っていた人たちが、彼女のおかげで幸せになっていく。

 この考え方は、日々の生活で忘れないようにしたいと思うことの一つである。パレアナは、立派なお屋敷の汚い屋根裏部屋をあてがわれたときも「鏡がなくて自分のそばかすを見なくてすむのが嬉しい」、交通事故で歩けなくなった時も「病気でなくていつか歩けるようになるから嬉しい」などと、無理やりポジティブに考える。自分自身に当てはめてみるのであれば、仕事で毎日残業続きでも「一生懸命打ち込める仕事があって嬉しい」、周囲に家族や友人がいない環境での生活も「自分の時間がしっかり持てるのが嬉しい」となるだろう。言うまでもなく、幸せに生きるためには、与えられた環境をどう捉え行動に移すかが重要だ。その一歩にこの“何でも喜びを見つける”ゲームを適用すると、その後の行動を間違えにくい。

 “勝ち組・負け組”などに表されるような、型にはまった幸せだけが幸せじゃない。どのような環境でも、自分が幸せだと思えば幸せであり勝ち組である。自分の心は誰にも支配されたくない。自分自身で幸せを見つけるものであってほしい。このパレアナのように……。

 さて、これは大変よい本だと思うのだが、現代の子どもたちはこの本など読むのだろうか。興味を持ってくださった方には、ぜひ読んでもらいたい。

過去のメールからの学び

 先日、メールを整理していたところ、昔お世話になっていた大学時代の先輩からの温かい言葉を発見した。

「落ち込みやすいってことは、それだけ、反省が次に生かせるってこと。すばらしい」

先輩は超がつくほどのとってもポジティブな方で、研究でも立派な業績を上げているうえに人柄も大変よい方であった。一方、私は当時とてもネガティブだったので、たびたび相談に乗ってもらっていたのだ。その時に掛けてくれた言葉である。

 このメールを見て驚いたことは、私がこの先輩の言葉を見て再び目から鱗だと思ったこと。全然反省してないじゃん、私!せっかく先輩が「それだけ反省が次に生かせる」と言ってくれているのに、これではただの落ち込み屋ではないか……。その時はふむふむと思っても実際に行動に移さなければ、先輩のありがたい言葉も半ば無視して生きてきたに等しい。なんと薄情な生き方なのだろうか。これではネガティブの泥沼から這い上がれない訳だ。

 またこれは他のことにも当てはまる。本やwebで自己啓発についてなどなるほど!と思うことがあっても、実際にやってみなければ意味がない。何もしないということは、脳に心地良い刺激を与えて安心するだけで、自分は一歩も変わらないのだから。

 もう一度、初心に立ち一歩ずつ進んで行こう。そう感じさせた出来事であった。メールをくれた先輩に再び感謝。

どっちが頭でどっちが足か

 みみずの話。このようなことを今まで考えたこともなかった。妹に言われておもしろい視点だなぁと感じたのでここに書いてみる。

 妹が話すには、小さな子が歩く道に、みみずがたくさんいたそうだ。その子はみみずが好きだったそうだが、みみずがたくさんいるため、歩くとみみずを踏んでしまう。「少しでも痛くないように、踏むなら頭でない方を踏んであげたい」と言っていたそうである。小さい子なりの優しさでかわいらしい。最も、私は踏むのはごめんなので、その道を避けてしまいそうだが……。

 みみずというと、大体のものは肌色で細長くて、なんだかぐにゅぐにゅしている。大きさはまちまち。雨の日の翌日など、道路にうようよ横たわっているため、気をつけていないとうっかり踏みつけてしまうという危険がある。一方、畑の土を耕してくれるなどと言われ、畑をやっている人にはありがたい存在だ。みみずが自ら攻撃してくるだとか、何かの害になるだとか、そういう危険性は聞いたことがない。それがゆえに興味・関心の外にいるのだろうか。どっちが頭か……などと考えたこともなかった。

 その存在に慣れてしまっている。知らないことに慣れている。たまには「みみずの頭は?」と考えるような新しい視点と、柔軟な頭、考えられる時間のゆとりを持ちたいと思った。